みこちゃんの小説ブログ

小説を掲載していきます

【短編小説】美津子の嘱託殺人

「愛川美津子という子がいるらしい、授業中は度の厚いメガネを掛けているから、美人だけどそれほど目立つような子じゃない。でもメガネを取ったあとこれがまたすごいかわいいんだ」

 五月の連休がすぎる頃、こんな噂が、同級生だけでなく上級生含めてささやかれるようになった。噂じゃなくて事実だけどね。ぼくは、ぼくだけの愛川美津子が、だんだん遠くに離れていく気がしていた。休み時間には、上級生が、ぼくら1年坊の教室まで数人で、毎時間の休みに美津子を見に来たほどだった。

「また来てるよ」
 もやもやした気持ちを隠しながら、苦笑交じりに美津子にいった。

「いま、メガネかけてないから何も見えない」と、笑った。

 なぜだか涙がでてきた。美津子が見えないなら構わない、と思って、僕は鼻水混じりの自分の涙を拭かなかった。美津子は、あの笑顔で笑っていながら、いい匂いのするハンカチをプリーツスカートの右ポケットから取り出して、「はいよ」と渡してくれた。

「見えてるんだね」

「そうね、見ようと思えばね」

 美津子のためなら死ねるな。なんだか突拍子もなくそう思った。そんな生き方がこの時代にもあるのかな、一人苦笑した。

 異変は次の日に突然に訪れた。美津子といつものように後者の屋上で弁当を食べていると、教師たちも手を焼いている女子の不良グループがやってきた。

「美津子っていうんだってな。お前目立ち過ぎなんだよ」

「…………」

「なんとか言えよ」

「…………」

「ほらあ、何とか言えってば」

「わたし何もしてません」

「その何もしてない、っていう態度がムカつくんだよ」
 三級上の女子学生は、昼休みに二枚に手のひらに隠したカミソリで美津子の頬を切り裂きました。

 二枚でやられると傷が平行状態になり縫合が困難なので、顔に傷が確実に残ります。そんな話を聞いたことがありました。

 僕の父親は外科の開業医だったので、「傷が絶対残らないようになんとかして欲しい」と携帯電話で父にはじめて頭を下げました。

「治療はできるが、傷跡を残さないというのはその状態ではなんともならない」と、やはり父もそう言いました。ぼくはあいつらを突き飛ばして美津子を屋上から保健室につれていきました。出血そのものはそれほどでもなく、命に関わるようなものではありませんでした。そのあたりは、きっといわゆる「ケンカなれ」いているのでしょう。

 ぼくはふつふつと怒りが沸き起こってくるのを感じました。そうか、おまえらがそうならおれは、おれのやり方でお前らに決着をつける。

 そう思って、スーパーで普通の果物ナイフを手に入れました。心が高鳴りました。

 美津子の傷は範囲が小さかったので、1週間ほどで治療もすみ、わずかな傷痕を頬に残して、復学していた。医者からはこの範囲なら何十年かすればほとんど見た目はわからない、と言われたそうだ。

 学校側では、警察沙汰にせず、金銭的な示談でことをおさめたようだった。詳細も知らないし、どのくらいのお金が動いたのかも知らない。

 でも、不思議だった。何度か誘われて訪ねた美津子の家は、かなり裕福な感じで、お金なんかで動かされないはずだったから。

「いいの、わたしがそうして、って親に頼んだから。私のことは親は何でも聞いてくれるから」

 その笑い顔が、かわいくみえた自分がまた、恥ずかしかった。最低の人間のクズだと思った。自分は人に頼られる人間じゃないんだ。あらためてそう思った。こうして、この事件は自分を抜きに解決している。

 間抜けだ。ほとほと自分が嫌になる。自分という人間は、常に人生というものの蚊帳の外に居るのだろうな……。美津子が治療を終えて学校に来た夜には、ずっと朝まで寝ないで静かに泣いていた。泣くということだけが、自分の誠意だという、完全になさけない男だった。

「おはよ」

 数日たって、メガネを掛けてない美津子が僕の肩に手をかけた。校門に入る前に美津子はいきなりぼくの学生カバンをひったくった。中を開けて果物ナイフを取り上げてられた。

「何これ? 何か楽しいおもちゃかな」

 美津子は、僕の鞄の中の果物ナイフを自分のカバンに入れた。

「ナイフを使いたいなら、使い方からあたしが教えてあげるよ」

 そう言って、うつくしくかわいく微笑んだ。

 妹? 違う、姉? 違う、母?違う、やさしい悪魔の笑い方だった。

「ねえ、なんでぼくがかばんの中にナイフを持ってるって分かったの?」
 いつものように昼休み、旧校舎の屋上でお弁当を食べているときに、思い切って聞いてみた。彼女は笑った。

「この間、武藤くんが駅の北口のスーパーで果物ナイフをかごに入れているの見たから。多分わたしのために使うんだろうな、と思った。だから、カバン検査して取り上げました」

 また彼女はあの笑顔で笑った。

 あ、笑うってこういう笑顔のことだったんだって、幼年時代を思い出すような、そんな笑い方だった。笑顔のお手本のような笑顔だった。

 刃物の話題でこんな笑い方できるのか……。自然と自分の小ささに、涙が出た。

「よく泣くね、武藤くんは。しかも女の子の前で」

 また右ポケットからハンカチを取り出して、「はいよ」と渡してくれた。

「そんなことはないよ。人前で泣いたことなんて、君の前でこの間と今度と二度きりだ」ぼくはムキになってそういった。

「そうなの?」

 美津子は僕の顔を覗き込んだ。メガネをしていなくても、見えるんだろう、こういう時は。

「わたしも人前で本当に笑ったのは、武藤くんの前だけだよ」

 僕はなんだか照れくさくて話題を別のものにしたくて、とっさに言った。

「その頬の傷なんだけど、何十年かたつと見えなくなるっていってたよね」

 まだ生々しい傷痕の残る頬を見て、ぼくはもう一度、殺意を感じた。ぼくの言葉は無視されて、心の中を見透かされたように、僕の殺意について美津子がちょっと間が空いたあと口を開いた。

「それはわたしがやるから大丈夫」

 彼女は僕の心を読んだように、平然と口にした。また、ぼくのためにたぶん、笑ってくれた。崩れ落ちゆくプライドが甘美なものだとは、それまで一度も知らなかった。想像すらしたことがなかった。

 プライドは守るもので育てるもので、敵に刃にして突きつけるもの。

 それをすねたふりをして、まるで反対にしてしまったのが美津子だった。僕はそれまで必死に抽象的なプライドを保ってきた。でも、女の子との前で泣くこと、自分の弱さを誰かに直視してもらうこと。それを、ぼくは弱視の女の子から教えてもらった。

 そのとき、僕には僕の聖なる義務があると思ったんだ。

 放課後に彼女がトイレに行っている間に、もういちど彼女の学生カバンをこっそり開けてナイフを奪い返した。これはぼくがやらくなくてはいけないことだと、もし自分が殺らずに彼女にそれをさせたら……。

 そうでないと、これから先の、その後、どんな人生も僕には無い。その時、頭の先から背骨を突き抜けてつま先までつきぬけてもぬけの殻になった、自分の骸骨のような未来だけがありありとみえたから。

 旧校舎の方の中庭に夕方、彼女に来てもらった。

 本当に不思議なのだが、彼女は僕がいったい何に従っているか、その見えぬものを知っているようだった。自分からしゃべるはずだった。

 でも、いつものように、彼女からすべてを見通したような声が出てきた。

「果物ナイフ盗まれたんだけど……。やってくれるの? じゃあ、いっしょにやろ」

 ぼくが、その美津子の頬を傷付けた女を羽交い締めにする、そして美津子は不良グループのリーダーの頬を果物包丁で刺す。

 ぼくはやっと美津子と同じ場所に立てたんだと思った。

 ぼくが羽交い締めみたいにして、美津子が刺す。これが単純に言うと僕らのシナリオだった。やられたらやりかえせという単純な論理なのだが、こんなことをやっていては世の中は狂っていく。しかしこの時、僕にはこの論理はなぜか唯一の真理に思えた。

「でも、人を刺すなんていうこと君にできるの?」

 ぼくは恐る恐る聞いてみた。なぜ恐る恐るだったのか。僕には彼女がそんなことたやすくできると、どこかで分かっていたからだ。

「ふふっ」

 彼女は分厚い眼鏡を取り出し、メガネを掛けて、僕の買った安物の果物ナイフを右手に持ち、屋上のドアを開けた。階段の一番上の踊り場の掲示板に掲載してある、演劇部のレトロチックなポスターに無造作に投げつけた。

 刃物は、ダンスを踊っている女性の頸を正確に射抜いていた。

「やるの?」

「あなたがやるならね」

 ナイフを外してきて、自分で投げる真似しようとしていたら、学年主任の教師が僕らの仕草を見ていた。美津子はとっさに僕のナイフを取り上げて体に覆いかぶさってきた。僕の体を反転させて自分のスカートを引っ張り上げて下着を見せた。

「お前ら屋上でいったい何をやってるんだ」

 学年主任は顔を赤らめながら大声を出した。

「すいません」

 彼女が一言言ったら学年主任は頷いて、そのまま消えていった。消える、消える……。すべて消える。すべてが消えて残るものは何なのだろう。

 僕はそれを美津子と見たいと思った。ぼくたちは詳細を打ち合わせた。

「じゃあ、いいね、この作戦で」
「いいよ」
「君はとにかく、あの度の強い眼鏡をかけた状態でそんなことはしたくない」
「うん。やっぱりね、犯罪を犯すにも、犯罪者の身勝手な美意識みたいなものがあるから」

「美少女が不良を刺したほうがかっこいいよね」
「いうわね。ブスが同性を刺してもみっともないしね」
 眼鏡の君も充分うつくしくて、僕は好きだと言おうと思ったがやめておいた。やはり美津子も眼鏡をかけない自分のほうが好きなのだろう。

 僕が羽交い締めにして、僕が声を出す。「ここに刺すべき標的がいる」君が刺す。それなら、眼鏡がなくても刺すことはできるね。それでいいんだね。そして、頬ではなく心臓を刺す。これでいいんだね。

「うん」

 ぼくは思い切って別の思っていることを聞いてみた。

「美津子ちゃんさ」
「美津子でいいよ」
「うん」

 ぼくは照れながら生まれて初めて女性を呼び捨てにした。

「美津子はなにか別のことを考えてないかい?」

「……」

 沈黙に耐えきれなくなるのはいつも僕の方だ。美津子は僕よりも何枚も上手で、やはりぼくにとっては不可解なかわいい悪魔だった。悪魔にたぶらかされるって、男にとっては幸せなことなんじゃないだろうか、そんな気がした。

「君はもしかして死にたいの?」

 弱視のうつろな目であたりに風景を見ていたようだった。その風景がどの様に見えたかはわからない。

「あなたは?」

 生まれて初めて避けていたことを真剣に考えた凝縮された一瞬だった。

「そうかもしれない」

 僕の久々に真剣に考えた脳髄からはそんな言葉が出てきてぼくも驚いた。

「あ、来たよ、三人で来てるけど、あいつをぼくが羽交い締めにするから、ここを刺せ、といったら躊躇なく一気に突っ走って突進しな」

「君のほうが詳しそうだけど、ナイフは振り回しちゃ何の役にも立たない。腰のあたりで両手で持って、全体重をナイフにかけてから、ジャンプするように相手の心臓を刺す。これが一番いい」

「分かった。ありがとう」

「来たね」

「警察どうのとか言われたから一応来たんだけど、まだ何か言いたいことあるわけ?」

 そいつが言った瞬間、ぼくはそいつを羽交い締めにした。

「美津子、この僕の声のするところをめがけてジャンプしろ」

「ありがとう」

 美津子はものすごい勢いで標的まっしぐらに走り込んで、全体重をナイフにかけた。

 血の匂いが鼻腔を詰まらせた。

 美津子が刺した相手は、ぼくだったんだ。

 不良グループの、蜘蛛の子を散らすように叫びながら走り去っていく声が聞こえた。

 美津子があわててメガネを取り出して、ぼくの内ポケットからはみ出している遺書を引き出したのが分かった。薄れゆく意識の中で美津子の胸に顔を押し当てた。女のこの胸ってこんなに柔らかいんだな。まるでお風呂に入っているような気持ちよさだった。

 遺書をめくる音が聞こえる。もうすぐ読み終わるのかな。

今回このようなかたちで、学校、警察、その他ご関係者の方にご迷惑をおかけしたことを心よりお詫び申し上げます。本当に申し訳ございませんでした。

僕は、本当に短い期間でしたが、美津子といろんな話をすることができました。その上で、最終的に美津子からの「わたしがあいつを刺し終わったら、一緒に死のうね」という言葉にうなずきあいました。

でも。

 僕が演ったのは、まず、彼女が刺す相手を間違えて、僕を刺す。

 美津子
 僕は君の弱視を利用したんだ。恨んでくれ。

 でも、その弱視がぼくはたまらなく好きだったよ。その弱視が君を作り、君を不幸にしたのももちろん知っている。でも、なぜだかその弱視の君が健気に生活しているのが、僕にはとうてい真似のできない奇跡だった。

 君は自分の意志でだれも刺してない。刺して欲しいと錯覚させられて僕を刺しただけだ。

 君が突進してくる直前に、彼女は羽交い締めにしていた彼女をコンクリの床に倒したよ。僕の声のする方向にあいつはいない。そこにいるのは、ぼくだった。女の子を両腕で抱いたことがない。人生の最後に女の子を思いっきり抱いてみたいな、そんなことを思いながらこれ書いてる。君を抱くように迎えるから、ぼくを刺してくれ。

 僕が望んだことなんだ。最期に思いっきり君を抱きたい。

 君はもしかしたら、僕の後を追って死ぬかも知れない。お互いもう疲れたよね、人生には。

 それでも、ぼくは君が死ぬことは望んでいません。生きてください。君のような、珍妙な生物は他にはいません。奇跡のような時間でした。こんなことって世の中にあるの? っていう鼻から涙が出てくるような瞬間がいっぱいありました。

 奇跡って、この世にある? っていう人に、奇跡って毎日あるよ! って大声で言いたいくらいでした。

 僕は君と心中するようなそんなことに値する人間ではない。僕は僕でこれまでいつも死に場所を探していました。生きている意味もわからなかった。それでも、そこに君との思い出を、どうしても巻き込みたくなかったし、一方で最後の最後の願いとしても巻き込みたかった。

 それが、どれだけ罪深いエゴであっても。ごめんね。多分ギリギリのところで、君はそれを受け止めてくれると信じています。

「嘱託殺人」なんだよ、これは。君は何の罪にも問われない。

 なんて甘美な言葉でしょう。愛する人の手にかかって自殺すること。これは至上の幸せです。

 願わくば、この僕の思いを受けて、生きてください。

                 武藤 光男 拝

 美津子が血でまみれたナイフを片手に、全体重をナイフにかけて、自分の左手の動脈を刺すのがかすかに見えた。

 美都子のいい匂いが鼻腔に充満した。柔らかい胸が僕の血まみれの胸に押し付けられる。もうそれ以上は何もいらないはずだったのに。僕はこの今が永遠となるように願って、美都子を抱きしめた……ようだった。

 消える、消える……。すべて消える。すべてが消えて残るものは何なのだろう。

Alone Again...マスカレード(3/全17回)

「あなたは気づいていないかもしれませんが、心と心は通じ合っています」


 夢から醒めたらそれが夢だった。しかしいったい、誰がそれが夢でないと保証できるのか。永遠の夢の連鎖に生きるのが人間であるならば、俺はその夢を生きようと思った。

 たとえそれが、虚しいマスカレードであったとしても、ダンスの相手はみゆきだった。ダンスステップは偽物だ。しかし俺の偽物は限りなく真実だ。

 ガラス戸一枚隔てていた迷路の出口。正しく出口を出るためには、自分が歩いた道を正確に戻らなくてはならない。しかし、俺は俺の過去など忘れていた。自分の歩んできた道を振り返らないといえばカッコもつくが、決してそんなものじゃない。

 振り返ることにどんな意味があるのかと、ただひたすら前を向いて歩く。それも違う。ただ振り返るのが怖かった。そこには堆肥のように積み重なった、目を背けたくなる俺の恥部だけしかなかったからだ。

 外の世界だけはガラス越しに見えているが、それは途方もなく遠い世界だ。ならば、このままガラス戸一枚の先の出口を想像してみよう。出口の先にはみゆきがいる。ここから、外の世界めがけて熱い口づけをかわそう。ガラス越しの燃えるような口づけこそ俺にふさわしい。

 俺ならガラス越しの口づけさえ、熱くしてみせることができるはずだ。

 最高のマスカレードを踊るのさ……。
 仮面の告白を演じきってやろう。

 俺はお気に入りの曲を脳髄に鳴らした。

 俺はタロットカード並べていった。みゆきの娘が好奇心で目を輝かせて、思わずといった様子で、みゆきの後ろから出てきた。カードを間近で見入っている。カードにはトリックはないものの、俺は、なんだかその純粋な視線に怯えた。

 ――俺の嘘がもし露見するとしたら、それはみゆきからではなく、このみゆきにそっくりの聡明で美しい妖精がきっかけになるだろう。なぜだか、そんな予感めいた確信が浮かんだ。

 だが、怯えてダンスステップを踏み外すわけにはいかない。

 俺は、ゆっくりとカードを並べながら、カードから視線をそらさずに視界の中にみゆきを入れ、囁くようにみゆきに語りかけた。


「あなたは過去の実らなかった恋愛に、今でも大きく左右されているようですね」


 最初は軽い探りだ。触れられたくないものにそっと触れられたときに人は、自分の心の中の錆びついた錠前の鍵音が、秘密めいてカチリと音を立てるのを聞くのだ。

「そうね、そうかも……しれないわ」

 口元に少し笑みを浮かべてみゆきは軽く首を傾けた。うなじのほつれた髪が、ロングドレスの裾のように優雅に宙に舞った。

 無難な答えだ。

「でも」

「ええ、なんですか」

「できれば今のことを、そしてこれからのことを占ってほしいの」

「いいでしょう」

 いつもならこのまま、しばらく詐欺ネタで引っ張るのだが、たまにこうして積極的にリクエストをしてくる客もいる。


「あなたのごく近くに、あなたを思う人がいるようですね。相手はあなたにとても惹かれていますが、それを態度に出さないように努力しているようです」


 このときのみゆきの表情を一言でいうと、少女のそれだった。

 淡い期待と微かな不安、期待と不安が拮抗する中でわずかに期待が上回っている。このバランスが崩れる時、女は大きく心が揺れ始めてすぐには戻れなくなる。経験上それは間違いのないことだった。

 ……俺の知っているようなキャバ嬢達は、最後にはこちらの術中に落とすにせよ、もっとしぶとかった。みゆきの素直な、あまりにも素直すぎる反応に、俺はまた、微かな罪悪感をつのらせた。


「相手はあなたのことを友達ではなく一人の女性として見ているようです。時々彼の目を見たいと思ったときに思わず目があったりしませんか」


「あります」

 やれやれ。今度は即答した。

 これは珍しいケースだ。心療内科の問診ではないのだから、客には返答する義務はない。曖昧に嗤っているだけでも、ちっとも当たらないと不機嫌になるのも、客に許された権利である。大抵の客はまだ期待と不安が拮抗している段階だ。

 だが、みゆきは一気に期待の方向に心の舵を切ったようだった。
 俺には手にとるように分かる。船は右舷に急旋回した。面舵いっぱいの状態で、そのまま手を離さなければ、心の底にはコークスクリューで螺旋状の穴が開けらる。そのまま船は沈むだろう。

 俺は、少しだけ取り舵方向に針路を修正した。


「残念ながら、相手は今は恋愛をする時期ではないと考えているようです」


 やばい。ほんの少し左舵に回したつもりだったのだが、みゆきの顔に落胆の色が広がった。急な左回転のステップを踏んだために、純白のドレスに右手に持っていた深紅のボルドーワインをこぼしてしまったのだ。

 ついでに、余興でつけたみゆきの仮面は床に落ちている。素面のみゆきは、店ですら見せたことのなかった、初めて見るような素顔を俺の前にさらしていた。あの店内での自然なふるまいですらも一つの演技であったかと思うような、人間の魂そのものの清らかで聖なる素面だった。

 俺も、自分の仮面を思わず外してしまいたかった。しかしこれはマスカレードだ。ホスト役が仮面を取るわけにはいかない。仮面の告白はなんとしても成就されねばならない神聖で尊い義務だった。


「あなたは気づいていないかもしれませんが、確実に心と心は通じ合っています」


「どうして分かるんですか、あなたに」

「私のタロットは完全に当たるのですよ。私がそう言っているのだから間違いないのです」

 みゆきは激流の海原での難破をなんとか免れたようだった。

 しかし、その次に発せられた、みゆきの何気ない一言が妙に耳に残った。

「そうね、他ならぬあなたが言うのなら間違いないわ」

 みゆきの瞳は完全に恋をする女の目だった。瞳の奥に仄暗く見える蝋燭の橙色の炎は、狂おしくも猛々しく虚空を典雅に揺れ、それは官能的でさえあった。しかし火傷をするような官能の猛りの奥底には、女はいつでも青い冷静な炎を持っている。

 みゆきは、俺の一言で完全にそのもうひとりの自分を取り戻したようだった。

 ここで気がつけばよかった。
 だが、俺の人生は、いや俺そのものが間抜けにできている。
 俺は、あまりにも女を、いや、人間そのものをゴミクズのように馬鹿にして生きてきた。人の心などというものは邪魔者でしかなかったのだ。

 みゆきの気持ちに気付くことなく、俺は、そのまま無責任にも余計な占いを続けてしまった。


「あなたは気づいていない可能性もありますが、遠からず、彼はあなたがいないと生きていけない状態になっていきますよ。いえ、もうなっているのかも知れません」


 微かな不安は完全に後退し、未来への期待がそれを覆い隠した。

 静かな沈黙があった。自分は愛されていると確信した女の表情は美しく神々しいものだ。俺は仮面越しに西洋の裸婦画を幻視した。

 だが、それを見た俺の心は打ちのめされるばかりだった。
 子供の帰りを待っている今の旦那にも飽いたのか。「新しい男」に期待を寄せて、こんなにも、みゆきの表情は輝いている。
 そいつが一体、どんな男なのかを想像する気力すら、俺には残っていなかった。

 しかし、その表情と仕草は神々しいまでに艶かしかった。俺は今すぐみゆきを、西新宿の雨に濡れた冷たいアスファルトの上に押し倒したい衝動に駆られた。

 もちろん俺の最後の聖女にそんなことはしない。

 俺はみゆきの唇を凝視して接吻を夢見た。


 ガラス越しの燃えるような口づけは、氷のように冷たかった。

Alone Again...マスカレード(3/全17回)

「あなたは気づいていないかもしれませんが、心と心は通じ合っています」


 夢から醒めたらそれが夢だった。しかしいったい、誰がそれが夢でないと保証できるのか。永遠の夢の連鎖に生きるのが人間であるならば、俺はその夢を生きようと思った。

 たとえそれが、虚しいマスカレードであったとしても、ダンスの相手はみゆきだった。ダンスステップは偽物だ。しかし俺の偽物は限りなく真実だ。

 ガラス戸一枚隔てていた迷路の出口。正しく出口を出るためには、自分が歩いた道を正確に戻らなくてはならない。しかし、俺は俺の過去など忘れていた。自分の歩んできた道を振り返らないといえばカッコもつくが、決してそんなものじゃない。

 振り返ることにどんな意味があるのかと、ただひたすら前を向いて歩く。それも違う。ただ振り返るのが怖かった。そこには堆肥のように積み重なった、目を背けたくなる俺の恥部だけしかなかったからだ。

 外の世界だけはガラス越しに見えているが、それは途方もなく遠い世界だ。ならば、このままガラス戸一枚の先の出口を想像してみよう。出口の先にはみゆきがいる。ここから、外の世界めがけて熱い口づけをかわそう。ガラス越しの燃えるような口づけこそ俺にふさわしい。

 俺ならガラス越しの口づけさえ、熱くしてみせることができるはずだ。

 最高のマスカレードを踊るのさ……。
 仮面の告白を演じきってやろう。

 俺はお気に入りの曲を脳髄に鳴らした。

 俺はタロットカード並べていった。みゆきの娘が好奇心で目を輝かせて、思わずといった様子で、みゆきの後ろから出てきた。カードを間近で見入っている。カードにはトリックはないものの、俺は、なんだかその純粋な視線に怯えた。

 ――俺の嘘がもし露見するとしたら、それはみゆきからではなく、このみゆきにそっくりの聡明で美しい妖精がきっかけになるだろう。なぜだか、そんな予感めいた確信が浮かんだ。

 だが、怯えてダンスステップを踏み外すわけにはいかない。

 俺は、ゆっくりとカードを並べながら、カードから視線をそらさずに視界の中にみゆきを入れ、囁くようにみゆきに語りかけた。


「あなたは過去の実らなかった恋愛に、今でも大きく左右されているようですね」


 最初は軽い探りだ。触れられたくないものにそっと触れられたときに人は、自分の心の中の錆びついた錠前の鍵音が、秘密めいてカチリと音を立てるのを聞くのだ。

「そうね、そうかも……しれないわ」

 口元に少し笑みを浮かべてみゆきは軽く首を傾けた。うなじのほつれた髪が、ロングドレスの裾のように優雅に宙に舞った。

 無難な答えだ。

「でも」

「ええ、なんですか」

「できれば今のことを、そしてこれからのことを占ってほしいの」

「いいでしょう」

 いつもならこのまま、しばらく詐欺ネタで引っ張るのだが、たまにこうして積極的にリクエストをしてくる客もいる。


「あなたのごく近くに、あなたを思う人がいるようですね。相手はあなたにとても惹かれていますが、それを態度に出さないように努力しているようです」


 このときのみゆきの表情を一言でいうと、少女のそれだった。

 淡い期待と微かな不安、期待と不安が拮抗する中でわずかに期待が上回っている。このバランスが崩れる時、女は大きく心が揺れ始めてすぐには戻れなくなる。経験上それは間違いのないことだった。

 ……俺の知っているようなキャバ嬢達は、最後にはこちらの術中に落とすにせよ、もっとしぶとかった。みゆきの素直な、あまりにも素直すぎる反応に、俺はまた、微かな罪悪感をつのらせた。


「相手はあなたのことを友達ではなく一人の女性として見ているようです。時々彼の目を見たいと思ったときに思わず目があったりしませんか」


「あります」

 やれやれ。今度は即答した。

 これは珍しいケースだ。心療内科の問診ではないのだから、客には返答する義務はない。曖昧に嗤っているだけでも、ちっとも当たらないと不機嫌になるのも、客に許された権利である。大抵の客はまだ期待と不安が拮抗している段階だ。

 だが、みゆきは一気に期待の方向に心の舵を切ったようだった。
 俺には手にとるように分かる。船は右舷に急旋回した。面舵いっぱいの状態で、そのまま手を離さなければ、心の底にはコークスクリューで螺旋状の穴が開けらる。そのまま船は沈むだろう。

 俺は、少しだけ取り舵方向に針路を修正した。


「残念ながら、相手は今は恋愛をする時期ではないと考えているようです」


 やばい。ほんの少し左舵に回したつもりだったのだが、みゆきの顔に落胆の色が広がった。急な左回転のステップを踏んだために、純白のドレスに右手に持っていた深紅のボルドーワインをこぼしてしまったのだ。

 ついでに、余興でつけたみゆきの仮面は床に落ちている。素面のみゆきは、店ですら見せたことのなかった、初めて見るような素顔を俺の前にさらしていた。あの店内での自然なふるまいですらも一つの演技であったかと思うような、人間の魂そのものの清らかで聖なる素面だった。

 俺も、自分の仮面を思わず外してしまいたかった。しかしこれはマスカレードだ。ホスト役が仮面を取るわけにはいかない。仮面の告白はなんとしても成就されねばならない神聖で尊い義務だった。


「あなたは気づいていないかもしれませんが、確実に心と心は通じ合っています」


「どうして分かるんですか、あなたに」

「私のタロットは完全に当たるのですよ。私がそう言っているのだから間違いないのです」

 みゆきは激流の海原での難破をなんとか免れたようだった。

 しかし、その次に発せられた、みゆきの何気ない一言が妙に耳に残った。

「そうね、他ならぬあなたが言うのなら間違いないわ」

 みゆきの瞳は完全に恋をする女の目だった。瞳の奥に仄暗く見える蝋燭の橙色の炎は、狂おしくも猛々しく虚空を典雅に揺れ、それは官能的でさえあった。しかし火傷をするような官能の猛りの奥底には、女はいつでも青い冷静な炎を持っている。

 みゆきは、俺の一言で完全にそのもうひとりの自分を取り戻したようだった。

 ここで気がつけばよかった。
 だが、俺の人生は、いや俺そのものが間抜けにできている。
 俺は、あまりにも女を、いや、人間そのものをゴミクズのように馬鹿にして生きてきた。人の心などというものは邪魔者でしかなかったのだ。

 みゆきの気持ちに気付くことなく、俺は、そのまま無責任にも余計な占いを続けてしまった。


「あなたは気づいていない可能性もありますが、遠からず、彼はあなたがいないと生きていけない状態になっていきますよ。いえ、もうなっているのかも知れません」


 微かな不安は完全に後退し、未来への期待がそれを覆い隠した。

 静かな沈黙があった。自分は愛されていると確信した女の表情は美しく神々しいものだ。俺は仮面越しに西洋の裸婦画を幻視した。

 だが、それを見た俺の心は打ちのめされるばかりだった。
 子供の帰りを待っている今の旦那にも飽いたのか。「新しい男」に期待を寄せて、こんなにも、みゆきの表情は輝いている。
 そいつが一体、どんな男なのかを想像する気力すら、俺には残っていなかった。

 しかし、その表情と仕草は神々しいまでに艶かしかった。俺は今すぐみゆきを、西新宿の雨に濡れた冷たいアスファルトの上に押し倒したい衝動に駆られた。

 もちろん俺の最後の聖女にそんなことはしない。

 俺はみゆきの唇を凝視して接吻を夢見た。


 ガラス越しの燃えるような口づけは、氷のように冷たかった。

Alone Again...キャバクラ(2/全17回)

 一般人は、終電とともに占い師も店をたたむと思っているだろう。しかし終電が終わったあとも客足は遠のくことはない。偽占い師の稼業は終電とともにピークがすぎるのだ。

 歌舞伎町あたりから流れてきたキャバ嬢に俺の店はよく使われていた。

 なんのことはない。金は連れの男持ちだ。男は数ヶ月ホールに通って、やってお目当てのキャストを口説き落としたばかりだ。ここで占い代金などケチっている場合ではない……だが、女は単純に、アフターの疑似恋愛を占いで盛り上げたいだけの話だがな。

 今日は客は少なかったが、そういうすこぶる金払いの良い客ばかりで、当たりの日だ。俺も手慣れたものだ。二人分で15分2万円などというのは当たり前。
 男にしてみればこのあと、最低限ホテル代と自宅へのタクシー代は残しておきたいところ。しかし、いざとなればクレジットカードがあると思っているだろう。

 ……ところが、俺も含めて占いは現金オンリーでの支払いとなっている。だから、売上げが焦げ付くことなんてことはありえない。男たちは、引きつった顔でシミの付いた革ザイフから、角の折れ曲がった一万円札を未練に引きずられながら抜き出す。
 キャバ嬢の猫を撫でるような甘えた声にねだられれば、逆らうことはできない。

 だが、気の毒にこのあとは、高級焼き肉と寿司屋に行くだけでおしまいだ。キャバ嬢が、簡単にホテルなどに行くわけがない。

『俺に大枚を支払っても、このあとそんなに大金が必要になることはありませんよ』

 サディスティックな気分でそう忠告してやりたくなったものだ。

 それで、そんな毎日を繰り返すうちに、キャバクラのキャストから「すっごーい、100発百中だよぉ。ねえ、今度お店に来てみんなのも占ってあげて」と言われることが増えていった。
 ……これで有頂天になるようでは、偽占い師などは務まらないがな。彼女たちだって、少しでも自分の売上を上げたいがために、俺を一人のバカなスケベ野郎扱いしているだけだ。

 しかし、持ちつ持たれつの関係はできていく。そのあたり、夜の商売のもの同士の阿吽の呼吸があるものだな、と不思議な気持ちになる。

 そう。

 彼女たちは俺にとっては、カモのスケベ野郎を偽占いにつれてきていくれる腕のいいポン引きみたいなものだ。だから、俺もたまにはお返しのつもりで彼女たちの店に行くのがいつしか日課になっていた。キャバ嬢のために俺に巻き上げられた金で、俺はキャバクラに遊びにいくようになった。

 遊び友達がいればそいつも誘ってやったんだが、あいにくと俺にはそんなやつはいなかった。それが「遊び」であっても、俺には友達の必要など感じられなかった。

 

 キャバクラもまた終電をすぎると客層がガラッと変わる。一言でいうと、店に落ちる金額にゼロが一つ二つ多くなるのだ。

 終電前までは、小遣いを切り詰めて、ときにサラ金で少額つまんだ貧乏人共がキャストの注文するフルーツ盛り合わせに冷や汗を隠しながら地味に遊んでいる。
 ところが、終電などもう気にしなくていい時間には、店の雰囲気はガラッと様変わりする。IT成金や怪しげな自営業者、株や外国為替証拠金取引の成金などが、天井に札束を投げてばらまき、キャストの女の子たちに犬のように拾わせたりする。拾った者勝ちだから女の子も必死だ。ときには怒鳴りあいの喧嘩も始まる。

 今日もまた、そんな、投げる方も拾う方も田舎者丸出しの乱痴騒ぎが繰り広げられているのを横目に、俺は苦笑する。苦笑しながら、指名した「彼女」を待った。

 俺の馴染みの店に、そんな見苦しい「札束ゲーム」に距離を置いて、参加しないキャストがいる。この女は、異色のキャストと言ってよかった。
 何が異色か。大抵のキャバ嬢はしゃべるのに精一杯で、客の話など何も聞いていないものだ――が、この女だけはいつも違っていた。

 客の話にごく自然な相槌を打ち、妙な無言の沈黙が決して入らないように絶妙のタイミングで、まったく違う話を始めたりしている。

 笑い顔がとくに魅力的だ。男に挑むような蠱惑的な視線は一切ない。かといって、天然ボケというキャラを演じるあざとさもない。
 キャバクラには二種類の女、必要以上に男に挑戦的な単純バカ女と、バカなふりをして客を騙すことに嗜虐的な喜びを感じる、ひねりの効いた真正バカ。その二種類しかいないと思っていたのだが。

 その中で、この女は特別だと俺は思ったのだった。

 ――そして、彼女が黒服に連れられ、俺の席へあの笑顔を浮かべながらやってくる。

「ごめんねー、シンゴさん。お待たせ!」


 キャバクラには店内指名と本指名がある。もちろんキャストにも店にも嬉しいのは本指名だ。指名料が五割増しの割高になるし、なにより本指名するということは目当てのキャストができたということだ。客はそのキャバ嬢が他店にでも移らない限り、その店に通い詰めることになるだろう……今の俺のように。

 女の名前は「みゆき」だ。
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 今日みゆきを連れてきた黒服は、最初に彼女の名前を聞いた奴だったな。あの時、まるで自分自身のたからものであるかのように、自信を持った笑みを浮かべて俺に教えてくれたのだ。

 この女が、みゆきがナンバーワンでないわけがない。
 初めて話した時から、そう確信していた。

「いいね、あの子。独特だ」と黒服に呟いた時に、俺は相当遊び慣れた男だと思われたようだ。だが、別にそうでもない。ただ、もし仮に他のキャストがナンバーワンのみゆきにあやかろうとして、同じスタイルで接客したらたちまちボロが出るだろう。
 今もそうだ。初めて出会った頃から、さらに磨きがかかっているように見える……だめだ、可愛くて仕方がない。男をスケベな馬鹿野郎だと思っているキャバ嬢達を、俺は違うぞ、と冷ややかに見ていたはずだったのにな。

 呑まれたくて、しかし呑まれたくなくて、初めて話した時の黒服の反応をまた反すうする。俺の感想に対して、あいつは確か、「まあ、キャストごとに個性はございますから」とか言ったのだったか。

 俺は満足だった。黒服は二度俺の前で素顔を見せた。最初は黒服の立場を離れてみゆきを自慢気に紹介した瞬間。そして、同じスタイルでの営業は他の女にはできないと断言した俺の評価に驚いた時だ。

 おそらく、店中の女に嫉妬されながらも、黒服たち男性スタッフの評価は抜群だろう。それがみゆきだ。

 俺は、その日は店内指名でみゆきについてもらった。
 そして翌日から、偽占いを店じまいしたあとはまっすぐ歌舞伎町に向かって、みゆきのいる店にみゆきを本指名で横に座らせるようになった。

「今度来てくれよ、みゆきちゃん。百発百中だって評判なんだぜ俺の占い」

 それが最初にみゆきにした自己紹介だ。みゆきも、あまりにも俺の使う金の量が多かったので、職業に興味を持ったらしい。もっとも、キャバクラ遊びの売掛金が飛ばないように、店長から俺の身元確認指示が出たのかも知れないが。

 俺が”売れっ子”占い師だということが分かると、みゆきは心から楽しそうに「じゃあ、今から占ってよ」と言って俺の手を握り、自分の手のひらを俺の掌の上に載せた。

 暖かくて、人間の血の通った手であることに一瞬狼狽の念を覚えた。今でもその感覚が手に残っている。

「いや、みゆきちゃん、占いにも色々あってね。おれのは手相占いじゃないんだよ」

「あっ、そか。はやとちりしたよ」

 だめだ、可愛い。

「タロットカードを広げないといけないから、今度ガード下の角にある俺の店に来てよ」

「いくいく。もちろんいくよ」

 俺は、その頃はすでにみゆきの仕草や、人柄に惹かれていた。いや、正直に言えば、惚れていたのだった。
 だが、相手はナンバーワンのキャバ嬢だ。こんなことは演技だということは分かっている。彼女は、その演技が天才的にうまいだけなのだ。天才的に演技のうまい女優は、私生活でもおそらくどこからどこまでが演技で、どこからが素なのか区別がつかないと聞いたことがある。

 その意味では俺だって「偽」占い師。
 毎日みゆきと同じように、客を相手に演技をしているので、演技か演技でないかのすれすれの境界線、一般人が見落としてしまうような境界線などはたやすく分かるのだ。

 ただ――みゆきには、それは一度も確認できなかった。
 だから俺は、あの時みゆきが「いくいく。もちろんいくよ」と言ってくれたことが心底嬉しかった。

 しかし、みゆきは一度も俺の店に来てくれたことはなかった。

「いくいく。もちろんいくよ」

 これが演技なのかどうか、俺には分からなかった。
 その境目が見えないのだ。もし本当なら、来てくれないのはいったいなぜなのだろうか。はなから来る気がないのだったら、みゆきもその他大勢のキャバ嬢と同じだ。

 それはとりもなおさず、俺自身がそこらのスケベオヤジとなんの変わりもないということになる。
 そして、おれはみゆきに本気で惚れてしまったがために、その演技と演技を超えたものの境目が見えなくなっている。

 あの日から『みゆきちゃん、いつ来てくれるんだ?』と、まるで追い打ちのように確認するのがこわくて、その話だけできずにいる。他愛のない、しかし夢のような、楽しい会話の時間ばかりが過ぎていく。 

 毎夜、偽占い師としてキャッシュで百万以上も稼ぎ、キャバクラでその金をほとんど使い果たすVIP扱いの俺は、もはや「その女のために生きている」と言ってさえいいようなみゆきの前で、いつも内心は不安な心を抱えていたのだった。


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 その、翌日。

 雨が激しかったという点を除いては、いつものようにありふれた日のようだった。終電前の行列が一気に潮が引くように片付いた、しらけた空白と雨の投げやりな音。

 おれは売上の札束を数えていた。雨のせいか、若干売上が落ちていた。
 大した金額ではなかったこともあり、こんな生活がいつまで続くのか、多少弱気になったのも事実だ。

 そこにみゆきの顔が浮かぶ。

 自然な笑顔で自分の目を見てくれる。
 直視されても構えずにすむ女性の目がこの世にあるとは、いまでも信じられなかった……。

 アル中のクソ親父が母親を殴り、小学生の俺は何度も父親を止めようとして殴り返された。歯が折れたこともある。しかし俺は毎回やったんだ。

 母さん……。

 母さんを守ろうとしたんだ……。

 母親はそんな不甲斐ない俺を、いつもまるで詰問するかのような厳しい目で睨みつけていた。
 だが、俺は母親を恨もうとは思わない。俺にもっと力があればよかったのだ。それ以上でもそれ以下でもない。

 涙は乾き、そして頬にこびりついた。そしてこびりついた涙を拭かないまま、その涙はまた次の日に上書きされた。
 少年の日の柔らかい頬は、こびりついた涙の堆積で古い地層のように徐々に固くなり、涙はもうこびりつきもしなくなった。古い地層の中にどんな少年の思いがあったのかさえ、もう地表からはうかがい知ることができない。

 雨の音の中に、みゆきの弾けた笑い声が混じったように聞こえた。

 声が聞きたい。

 また、この雨のように泣いてみたい。

 あるいは!

 その雨は、俺のこびりついた涙を溶かしてくれる……。

 

 自分の感傷を嗤った。

 静かだが頑固な雨が一瞬止んだ。


 「やっとこれたよ」


 みゆきがあの笑顔で立っていた。


 『来てくれたのか……』と、俺は心のなかで叫んだ。
 時が止まったように、言葉がでなくて、ひどく間抜けな面を晒しているに違いない。だが、そんなことも気にならないぐらい、俺は固まっていた。

「ごめんね、事情があってね」

 事情なんて何でもかまわない。

「いつももっと遅いんだけど、今日は店長に無理言って早めに店は早退したの。この子の誕生日だから」

 みゆきのコートの後ろから、未就学児童と思われるみゆきそっくりの愛くるしい顔をした少女が顔を出した。なんだか怯えているような顔に見えて、俺は理由もなく自責の念にかられた。

 あぁ。子供が、いたのか。
 初めて知った。

「深夜保育に毎晩ダッシュでお迎えに行かないといけなくてね。それで、ずっと行きたかったんだけど、いつも時間が取れなくて……」

 普段は母娘とも、帰りは遅い。だが、誕生日という特別な日だから……家では、午前零時を回って一日遅れになったこの子の誕生日を祝うために、旦那がケーキでも用意して待っている……ということか?

 キャバ嬢には確かに、家庭を持っていて、お金のために働いているのも多いことは知っていたが、みゆきからはそういう話は一切聞かなかった。いや、あるいは俺は、そういうことを聞かないようにしていたのかもしれない。

 何かが崩れるような心地がして、俺はなんだか、泣きたいのを通り越して妙に大声で笑いたい気分になっていた。

「気にしないでよ。せっかく来てくれたんだ。事情もわかったから、手短に占うよ。お嬢さんのも一緒に占ってあげよう」


 この時、俺は自分のタロット占いの技が偽物であることを呪った。
 悪魔を意味する十五番のタロットカードに、念じたかった。
 今後生きていくすべての寿命と交換してもいい、今から占う二人分の占いだけは、どうか、本物のタロット占いの霊感で占いたい。

 そのためなら、なんだって惜しくない……。

 しかし、悪魔の囁きは訪れなかった。


 かわりに天使の声が聞こえた。

「じゃあ、さっそく二人分占ってもらおうかな」

 俺は再び独りの自分を確認した。

 そして、職業的な手付きでタロットカードを並べはじめた。

Alone Again...タロット(1/全17回)

 目が覚めると、いつものような平凡な朝だった。

 朝といっても自分にとって目が覚める時間を朝と名付けているだけのことだ。時計代わりのiPhoneを見ると、アスファルトに落として亀裂の入ったディスプレイの後ろに『16:00』という文字が、掠れたような白さで浮かび上がっていた。

 寝たままでつけられるように紐を伸ばした蛍光灯の明かりをつけ、体を横にして、昨夜飲みかけにしておいたウイスキーのグラスを左手で掴む。

 いつもと同じように、濃いバーボンがロックアイスとともに、ひどく情けなく薄まっていた。これにいきなり右手の人差指を突っ込んで、マドラーのように撹拌する。それが習慣になって、二年が過ぎようとしている。

 そうだ。もうこんな日々が、二年も経つんだな。
 枕元に乱雑に放り出されたタロットカードを眺めながらそう思った。

 泥酔して布団に潜り込み、いつものあの曲をかけながら意識が薄れていくのをひたすらに祈る、そんな日々だ。そして、起き抜けに残り酒を大切に飲みながら、あの曲をまた聴く。

 Gilbert O'Sullivanの『Alone Again』

 まだ自分に良心といえるものが残っていた頃に涙した曲だった。
 今ではもう泣くこともない。ただ、自分がかつて、人並みに涙を流せる人間であったことくらいはせめて忘れたくはなかった。それを感傷と呼ぶのはたやすいことだが、人は人が嗤うようなものさえ、最後に大事にしないと生きていけないものなのだ。

 こんなくたびれた詐欺占い師にも、まだ、大切なものが残っている。そう思うと、ようやく効いてきた薄酒の効果もあって、気持ちに少し光がさす。

 俺がねぐらにしているボロアパートの一室には、この時間にはすでに西日が差しこんでくる。そのオレンジ色の西日を、いつからか朝日だと自分に言い聞かせるようにしていた。オレンジ色の西日を目を細めてみると、その日初めての光が輝いているかのように――そう、まるで朝日のように見えるのだ。

 どうか、その朝日が自分のこの心にまで届くように……祈った。

 アル中の詐欺占い師だって、朝日くらいは浴びたいのだ。そう、人並みに……ね。

 

 そして、今日も俺は「仕事」に繰り出す。
 新宿の西口のガード下が俺のショバだ。アスファルトが傾斜しており、普通に占いをするための机を出すと、地球の重力に従って机が斜めになるんだが……今は、かたむいた方の足の下に、ボロボロになった新聞紙の束がつめられている。
 傾いていても気にせず占いをしていたのだが、いつだったか、見かねたホームレスが自分の薄汚れた拾い物のトートバッグを大事そうに開けて新聞紙を出してくれたのだ。

「兄ちゃん、これ、下に敷きなよ。傾いてるぜ」

 あの時、なんて人懐こい笑顔をする男なんだろう、と思った。この笑顔さえあれば、こんなところで路上生活しなくても一流の接客ができ、一流の営業マンになれたはずだろうにな。いや、あるいは、数年前はあの男は実際に一流のビジネスマンだったのかも知れない。

 そう思って礼を言い、頭を下げた時の、男の嬉しそうな笑顔が忘れられない。前歯はほとんど抜け落ちていた。真っ白い歯を期待してしまったんだがな……。


 身を切る夜風に上着の裾をつかみながら、今日の最初の客を待つ。
 たしか、二人ほど会社帰りと思われる二〇代後半の女性を連続で占ったのが一番最初だったか。ふたりとも大満足して、黄色い声をあげながら俺の占いを褒め称えた。

 俺がやる占いは「タロット占い」だ。しかし……タロット占いなんてものは、実はまるで分からない。かつて占いをやったこともないし、占ってもらったことも一度も無かったからな。

 ではなぜ、タロット占い師として、最低限の酒代が稼げているのか。

 懐から一冊の色あせたノートを取り出して、パラパラめくる。
 もう何度も何度も読み直した。書いてあることはもう、すべて完璧に頭の中にたたきこんであるが、ヒマな時間にこうして読み直すクセがついてしまっていた。

 こいつは、まだ俺が高利貸しの営業をやっているときに追い詰めた占い師からもらったものだった。

 返済に窮した男は「たのむ、このノートをあげるから足りない分は見逃してくれ」と、鼻水を垂らしながら俺の前で土下座してみせたのだ。
 上司からは、最低でも半分回収してこいと言われていた。それはすでに回収済みだったからそんなノートは要らなかったのだ。だが、くれるというのだからもらっておいた。

『そのノートはきっとあんたが本当に困ったときに役に立つよ。嘘じゃない、約束する』

 ……おやおや、さてはこいつはDEATH NOTEかい?
 あいにくと、俺には私憤でノートに書きたい人間も、公憤でノートに書きたい人間もいない。あのノートに書くには少なくとも、いったんは人間を信じて裏切られたり、いったんは世間を信じて裏切られたりして絶望した経験が必要なはずだからな。

 ところが俺にはそんな経験はなかった。最初から人間にも世間にもなんの期待も持っていなかった。あるいは、失っていたのかもしれないが。

 

 しかし、あの占い師の言ったことは本当だった。そのすぐ後、会社の上司と口論になって辞表を叩きつけた俺は、文字通りすぐに路頭に迷った。とにかくアパートを立ち退かなくてはならなくなってしまったのだ。そんな、あわただしく荷造りをしている時に、見つけたのがこのノートだった。

 そのままゴミ箱に放り込もうとも思ったが、なぜだか男の言葉を思い出したのだった。

「本当に困ったときに役に立つよ」……か。
 口の端をちょっと上に上げるように一人笑いしながら、あの時と同じように、俺はノートを最初からめくってみた。

 ノートにはびっしりと、占い詐欺のやり方が載っている。
 まるで百科全書のようにいろいろなテクニックが書いてある。

 それを直感的に使えると思ったのだ。これでも普通の人間が経験したことのないような修羅場をたくさんくぐってきた。やくざの取り立てだってやったことがあるし、拳銃で撃たれたこともある。

 やれやれ、今日の俺は……やけに感傷的だな。酒がまだ抜けていないか?
 一番最初に酒を飲んだ時と同じように、全身に鳥肌が立つのを感じる。

 西日を朝日に重ねるような、あのボロアパートへ引っ越してから、地下街のホームレス臭のきつい薄暗い西新宿に店を出すようになって二年が経っていた。

 

『人は、自分が信じたいものを信じる。
 徹底的にこの心理を利用せよ。』

 これが、このノートの始めから終わりまでを貫いている哲学だ。単なる断片ではなく、計画犯罪を犯す者だけが持っているある種のふてぶてしい信念が確固として貫かれていた。

 ノートには、一つの例と、(カッコ)の中に、あの占い師の書き込みと思わしきものがびっしりと記されていた。

 こんな感じだ。

===============================

 あなたは過去の実らなかった恋愛に、今でも大きく左右されているようですね。
(過去に失恋を経験したことのない人間はほとんどいないし、人は失恋の経験すら特別なものであったと信じたがる、そこを狙え)

 相手はあなたのことにとてもに惹かれていますが、それを態度に出さないように努力しているようですね。
(態度に出ないのだったら、実際惹かれているかどうかなんて分かるわけがない。しかしその態度の裏にはあなたへの愛に照れる一人の男がいる。人はだれもそう信じたいものだ。そこを狙え)

相手はあなたのことを友達ではなく一人の女性として見ているようです。時々彼の目を見たいと思ったときに思わず目があったりしませんか。
(こちらから何度も相手を見ていれば、目を合わせることだって多くなる。しかし人間はそう信じたいのだ。そこを狙え)

相手は今は恋愛をする時期ではないと考えているようです。
(本当は好きなのだが、今は事情によりそれができないで彼も苦しんでいる。実際はそんなことがなくてもそう言ってやれば、それを信じるのだ。そこを狙え)

 あなたは気づいていないかもしれませんが、運命の人はすぐ側にいます。
(直ぐ側という主観的な言葉のトリックを使う。どこからどこまでが側なのかは信じたいと思う度合いによって、どんどん長く伸びていくものだ。そこを狙え)


 あなたは気づいていないかもしれませんが、心と心は通じ合っています。
(態度に出ていないので、本当に心と心が通じ合っているかどうかなど分かるわけがない。しかし、見えないという事実が逆説的に信頼度の高さを感じてしまう逆説がある。そこを狙え)


 あなたは気づいていない可能性もありますが、彼はあなたを知らず知らずのうち に好きになっていきますよ
(まず、あなたが気づいていないということで、自分にポジティブな疑いの目を向けさせろ。そうすれば、本当は彼はあなたを好きでしょうがないという言葉は、乾いた砂が水を吸うように嘘でもいいから信じたいという心に忍び込むものだ。そこを狙え)

===============================

 初日はノートの本の最初の数ページ分しか試さなかったが、それでも五〇人ほどの行列ができ、結局店を閉めたのは午前三時だった。
 二年経った今でも、多いときは同じぐらい、少ない時でも三〇人ほどの客入りがある。今晩はどうだろうか……このあとの「用事」のために、もっと稼いでおきたいところだが。

 ノートのテクニックを振り返っていると、顔なじみになった、新宿二丁目警察署の警官がパトロールで通り過ぎていくのが見えた。目が合った気がしたので、軽く会釈をする。
 確か、占いの初日に、歌舞伎町でケンカをやらかしたヤクザを連行していた時に、「見ない顔だね、あんた。届出制だから、明日やったら他の課の人間が取り締まるよ」と苦笑いしていた年配の警邏だ。チンピラヤクザが、明日俺も占ってくれよ! と酒くさい息で大笑いしていたのを思い出した。

 新宿警察署の四課に目をつけられ、ヤクザにしゃべりかけられる。この街が気に入ったキッカケがあいつらだった。
 あの夜、いきなり80万ほどものキャッシュを手に入れた。それを鞄に入れて、俺は自然と溢れてしまう勝利者の笑いを押し殺しながら、二丁目方面に歩いていった。

 その日課は、今も変わらない。
 今日も俺は、稼いだ大金を手に……「あの女」に会いに行く。

小説ブログはじめました

自分の小説で一番のお気に入りは『Alone Again』です。

 

師匠の赤星香一郎先生にあとがきを書いていただきました。

 

 

Alone Again (みこちゃん出版)

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これは先生も認めてくださった今のところ私の最高傑作です。

 

これを順次、ここに掲載していきたいと思います。